累風庵閑日録

本と日常の徒然

『被告側の証人』 A・E・W・メイスン 論創社

●『被告側の証人』 A・E・W・メイスン 論創社 読了。

 一応殺人事件は発生するが、普通の意味でのミステリ味は極めて薄い。だが、なんとも面白いのだこれが。曖昧な話で恐縮だが、たぶん阿刀田高だったか、すべての小説はミステリだという言説をどこかで読んだことがある。この先どうなるのか、という興味で先を読ませるのがすなわち小説なのだ、とか。そういった意味で本書は、まぎれもなく上質のミステリである。登場人物の意外な行動と物語の意外な展開、そしてこの先どうなるのかという興味でぐいぐい読める。終盤の語りや問答のスリルも素晴らしい。

 登場人物の描写も読みどころ。主人公格のスレスクは、基本的には高潔で真っ直ぐな人柄ではあるが、自己中心的な側面があるし、他人を誤解するし、嫉妬に駆られるしで、生々しい。マーガレットは、自分勝手な嫉妬をもっともらしい批判にすり替えて他者を攻撃する態度が、憎たらしくてどこにでもいそうで、面白い。ハロルドの造形も読ませる。自ら信ずるところにのみ従い、世間の価値観や周囲の思惑をものともせず、しっかりと前を向いて歩む信念の人。という姿で読者の前に登場しながら、ある出来事の当事者になるとあっさり負けてしまい、信念を曲げても自分を正当化できる理由を探して必死にすがりつく。そんな弱さ、小ささがいかにも人間臭くて、微笑ましい。

 メイスンは大変楽しめた。論創社では過去に翻訳された作品の新訳をちょいちょい出しているから、ぜひ「オパールの囚人」の新訳もお願いしたい。そういえば創元推理文庫の『サハラに舞う羽根』が積ん読なのであった。