累風庵閑日録

本と日常の徒然

『チェホフ/ドゥーセ』 東都書房

●『チェホフ/ドゥーセ』 東都書房 読了。

 世界推理小説体系の第五巻である。ドゥーセの「スミルノ博士の日記」は先日読んだので、今回は読み残していたチェホフ「狩場の悲劇」を読んだ。いやはやどうにも、しんどいことしんどいこと。本を持ち歩くのが重くて物理的にしんどかったし、まどろっこしいストーリーを読み進めるのが精神的にしんどかった。とにかくもう、話が全然進展しないのである。多少誇張して書くと、最初に登場した語り手が、ある日富豪の友人の屋敷に遊びに行って二日二晩の乱痴気騒ぎをやりました、というだけのことを書くのに全体の三割を費やすのだ。

 語り手を含む主要登場人物がそれぞれ大きな欠点を抱えているので、彼らのハチャメチャ振りの面白さに支えられて、かろうじて読み進めた。で、そうやってしんどい思いをしながら読み終えた結論としては、かなり高い満足感が得られたのであった。犯人の造形がちょっとした「サイコさん」で不気味だし、終盤になってようやくテンポが速くなってからの畳みかけが面白い。真犯人が明らかになるプロセスはちゃんとミステリらしい体裁をとっているし、それに伴う解明シーンのサスペンスも上々。もっとも、冷静に考えるとこういう評価はやや高すぎるかもしれない。期待しているものがほとんどゼロだったので、わずかでもミステリ味があれば、それだけで意外性を伴なう満足感があるのだ。これってミステリだったのか、という意外性である。

 以上、読んで面白かったわけだが、実はこの作品に関しては非常に大きな落胆を覚えている。まったくもって残念至極である。作品全体を貫くある趣向が、巻末解説のなんとドゥーセの項に(!)しれっと書いてあるのだ。先日ドゥーセを読んだときに、ついでに巻末解説を読んだ。そこでチェホフのネタバレを食らってしまったのである。チェホフの項は読まないように気を付けていたにもかかわらず、だ。ドゥーセについて語る文脈で、なぜチェホフのネタをばらす必要があるのだ??? この解説者は(伏字)か??? なんたることか。

 チェホフもドゥーセも、ネタを知らずに読んだら一体どんな感想を持ったことか。もう取り返しのつかないことである。この本を読了して残った想いは、チェホフに対する満足感と、事前にネタを知ってしまった残念さが半々くらい。

●まだ書きたいことがある。巻末解説によると、原書には作者による注釈が大量に挿入されているのだそうな。だが、翻訳ではそれら注釈がすべて削除されている。ミステリ的な興味を重視したためらしいが、余計なことを、と思わないでもない。原書に忠実に訳したものとそうでないものとでは、自ずと味わいが違ってくるだろう。で、どうやらちくま文庫チェーホフ全集に収録されているバージョンは、この注釈がちゃんと訳されているらしい。こんなまどろっこしい小説、さすがにまともに再読しようとは思わないが、ちくま文庫版の飛ばし読みくらいはしてみたい。ちょっと探してみようかと思う。