累風庵閑日録

本と日常の徒然

『人魚とビスケット』 J・M・スコット 創元推理文庫

●『人魚とビスケット』 J・M・スコット 創元推理文庫 読了。

 序盤の設定がいい感じ。語り手の境遇に、身につまされるものがある。輝かしい自由を象徴する大海を夢想しながら、生活費を稼ぐために興味のない仕事を続けなければならない日々。気心の知れた仲間達とヨットで過ごした週末を、「本当の生活」として振り返る、味気ない日常。友人の船乗りからの遠洋航海への誘いが、人生の大きなチャンスだと分かっていながら、ぎりぎりの一歩が踏み出せないまま、虚しく時が経ってしまう。

 それはそうと、話が本格的に動き始めてからの迫力は大変なものである。ボートに乗って漂流する四人に襲い掛かる、飢え、渇き、自然の猛威、そして締め付けられるような人間関係の緊張感。読んでいるこっちがくたびれてしまう。

 そして一番驚いたのが、巻末解説にある(伏字)だという点である。そういうことなら、リアルタイムの読者の方が、刊行六十年後に異国で手に取る読者(私)よりも、はるかに強烈な興味を掻き立てられたはずだし、ストーリーを追う楽しみもはるかに深かったはずである。昔の小説を翻訳で読むという行為の限界を、ふと感じてしまったのであった。