累風庵閑日録

本と日常の徒然

『エッジウェア卿の死』 A・クリスティー クリスティー文庫

●『エッジウェア卿の死』 A・クリスティー クリスティー文庫 読了。

 エッジウェア卿が殺される直前、別居中の妻ジェーンが屋敷を訪れ、黙って立ち去っていた。動機の強さもあって、彼女が犯人であることはあまりにも明白。というのが、一番最初に提示される事件の構図である。その後状況が明らかになるにつれ、事件の構図は根底からの再構築を余儀なくされる。事件に対する仮説の前提条件に新たな立脚点を導入することで、目に見えている状況の意味合いがぐるっとひっくり返る面白さよ。

 主人公格のジェーン・ウィルキンスンの造形がずば抜けている。自分の望みを実現することにしか興味がなく、道徳だの社会規範だのはまったく眼中にない。大切なのは自分の幸せだけ。他人の幸せどころか、他人の命すらご興味ござらぬ。本書の主役は事件でもエルキュール・ポアロでもなく、まぎれもなくジェーンなのであった。

●ところでこれで、クリスティーのミステリを全て読み終えた。

●まったく久しぶりに古本を買う。五月以来である。
『ベイ・シティ・ブルース』 R・チャンドラー 河出文庫
砂の器(上)』 松本清張 新潮文庫
砂の器(下)』 松本清張 新潮文庫

 松本清張は今までに四、五作しか読んだことがない。代表作だけでも読みたいと思って、手を出してみた。

『七人の刑事』 山前譲編 廣済堂ブルーブックス

●『七人の刑事』 山前譲編 廣済堂ブルーブックス 読了。

「七人の名探偵シリーズ」の第一巻である。島田一男「部長刑事物語」や藤原審爾「復讐の論理」は、普段馴染みのないスタイルの新鮮さがあってつまらなくはなかったが、それ以上のコメントは無し。森村誠一「棟居刑事の占術」は、地道な捜査の模様が私好み。占いに関する蘊蓄の部分は目が活字の上を滑って行ってしまったけれども。

 個人的ベストは中町信「裸の密室」で、トリッキーな良編。特に、犯人の仕掛けた(伏字)ネタには感心した。もうひとつのネタは意外ではあるものの、物語の展開上必須ではないような。

●今日は夕方から飲み会。その前に書店に寄り道して本を買う。
『春にして君を離れ』 A・クリスティー クリスティー文庫
アガサ・クリスティー99の謎』 早川書房編集部編 クリスティー文庫
『エイレングラフ弁護士の事件簿』 L・ブロック 文春文庫

 もう少しでクリスティーのミステリを読み終える。非ミステリ作品に手を出すつもりはなかったのだが、「春にして~」は異様なまでに評判がいいので買ってみた。「~99の謎」は新刊当時買わないままにしていたのを、今日行った書店で見かけたのでついで買い。

『リトモア少年誘拐』 H・ウェイド 創元推理文庫

●『リトモア少年誘拐』 H・ウェイド 創元推理文庫 読了。

 おっそろしく地味な作品である。誘拐サスペンスから始まって、やがて重点は犯人を追及する警察の捜査へと移ってゆく。主人公格の人物としてヴァイン主任警部がいるけれども、ずば抜けた名探偵ぶりを発揮するわけではない。主体となるのはあくまでも警察組織で、多くの人員が地道で堅実な捜査を積み重ねる。こういう味わいは好物である。

 犯人の設定は(伏字)で、早い段階で見当が付いた。したがって結末で明かされる真相に意外さは感じなかったけれども、典型好きの私としては楽しめた。結論、全体に好感が持てるなかなかの秀作であった。

『パニック・パーティー』 A・バークリー 原書房

●『パニック・パーティー』 A・バークリー 原書房 読了。

 クルーズ船のトラブルによって、絶海の孤島に置き去りにされた十五人の男女。船が戻ってくるのは二週間後。水や食料は豊富だが、無線機はない。事故のようだが実際は、裏にクルーズ主催者のとある企みが隠されていた。やがて主催者の死体が島の近くの海を漂っているのが発見される。どうやら崖から落ちたらしい。転落事故か、それとも誰かに突き落とされたのか。これだけならばいわゆる「嵐の山荘」タイプの物語のようだが、実際はかなり違う。最初のページにある序文的文章が意味深長である。本書は推理のみを主題とした小説とは正反対の作品だそうで。

 一緒にいるうちの誰かが殺人者かもしれないのだ。最初のうちは冷静で礼儀正しかった人々が、閉鎖環境のなかで緊張を強いられ、次第に理性を失ってゆく。その様が各人各様に丁寧に描かれる。ちょっとしたことでパニックを起こし泣き叫ぶ。誰それが殺人者だと決めつけて罵る。アルコールに耽溺して狂気を募らせる。どうやら本書では、危機に際しての人間の弱さ、哀しさ、愚かさがひとつの主題となっているようだ。

 こういった人間観察も、皮肉で気が利いている結末も、バークリーらしいと思う。序文にあるように本格ミステリとしては心細いが、次第に高まってゆく不穏な空気がもたらす緊迫感は上々であった。

『シャダーズ』 A・アボット ROM叢書

●『シャダーズ』 A・アボット ROM叢書 読了。

 痕跡を残さない殺人法を発見したとされる怪人ボールドウィン博士と、ニューヨーク市警本部長サッチャー・コルトとの闘争を描くスリラー。一見自然死としか思えない状況で次々と死んでゆく関係者達。死体が積み重なる派手な展開で読ませるが、真相となるとどうも心細い。盛り込まれている意外性はちょっとしたもので、その点は評価したいけれども、その意外性を支える要素まで含めるとこれまた心細い。結末の処理の仕方も(伏字)ていて、ちょいと心細い。

 天才型の名探偵を組織のトップに据えるという基本設定から生じる歪が、引っ掛かってしょうがない。コルトは調査で分かったことや推理の結果を組織で共有しないのだ。困った上長である。ミステリのお約束としては、ぎりぎり最後まで情報は伏せていてしかるべきではあるが、そういった態度が不自然でないのは探偵役が個人として活動している場合だけだろう。

 全体として、ううん、という出来であった。

『復讐鬼』 高木彬光 偕成社

●『復讐鬼』 高木彬光 偕成社 読了。

 扉には「大デューマ原作」とある。ダルタニヤン物語の第二部を、高木彬光が子供向けに分かりやすくリライトしたものである。大きめの活字で約三百ページの本なのだが、完訳は文庫版で三巻になるというから、かなり省略されているはずである。第一部を読んだことはないけれども、本書の記述によれば、第一部でダルタニヤンと三銃士とが稀代の悪女ミラディを成敗した。その息子モードントが親の仇として復讐を誓い、ダルタニヤン達を付け狙っているというのが、題名の謂れである。

 クロムウェル軍との戦いで窮地に立たされているチャールズ一世を救うべく、イギリスに渡って活躍するダルタニヤン一行。一方、クロムウェル配下となっているモードントは、彼らの計画の前に立ちふさがって妨害し、同時に命を狙ってくる。陽性の主人公と陰性邪悪な復讐鬼との対比が際立つ快作であった。子供向けなだけあってさすがに読みやすく、さくさくと物語が進む。基本的な物語が面白いのはデュマの功績だが、このスピード感は高木彬光の功績であろう。

『黄金の13/現代篇』 E・クイーン編 ハヤカワ文庫

●『黄金の13/現代篇』 E・クイーン編 ハヤカワ文庫 読了。

 六百ページ近い分量なのでもともと読了までに四日かける予定だったのだが、間に一日休んだので五日もかかってしまった。気に入った作品は以下のようなところ。

 ジョルジュ・シムノン「幸福なるかな、柔和なる者」は、連続殺人鬼の正体に気付いた主人公の恐怖を描く。多重構造のサスペンスが濃密である。すなわち、自分が気付いたと思いこんだ根拠は本当に正しいのか。相手はこちらが気付いたことに気付いているのか。連続殺人のパターンから逸脱して、次に狙われるのは自分なのではないか。相手は社会的信用がある人物なので、自分こそが犯人だと疑われないか。また、被害者の共通点を探るミッシング・リンクテーマの面白さもあるし、動機も秀逸。

 ジョン・ディクスン・カー「パリから来た紳士」は再読だしネタも覚えていたのだが、それでも十分に楽しめた。メインのネタに関連するくすぐりが散りばめられている点、よく練られている。場末の酒場の暗い雰囲気もいい感じ。

 シャーロット・アームストロング「敵」は、少年探偵団が活躍するがジュブナイルではない。題材はちょいとシビア。結末で、いかにも大人向けミステリらしい全体像がぱっと浮かんでくる切れ味が上出来。

 個人的ベストはロイ・ヴィカーズ「二重像」であった。主人公ジュリアンと瓜二つの男が出没し、ある日とうとう殺人を犯すに至る。ところが警察は謎のそっくりさんなんて存在を受け入れず、ジュリアンが犯人だという前提で捜査を進める。真に狡猾で凶悪なのは謎のそっくりさんか、それともジュリアンか。ぎりぎりの二者択一が、不気味さを伴って上質のサスペンスとなっている。

読書を休む

●フィクションに疲れた。頭が物語を受け付けなくなった。といっても、なんら深刻な事態ではない。年に一度か二度は陥る状態で、いうなれば筋トレをして筋肉痛になったようなものである。対処法も分かっている。一日くらい読書を休めば回復するのだ。という訳で、水曜から読んでいるミステリアンソロジーの読了は明日に持ち越す。

●書店に出かけて雑誌を買う。
『建築知識 9月号』 エクスナレッジ

『英雄と悪党との狭間で』 A・カーター 論創社

●『英雄と悪党との狭間で』 A・カーター 論創社 読了。

 共同体の誰とも馴染めないでいる主人公が、ひょんなことから(便利な言葉だ)蛮族の青年と行動を共にすることになる。どうやらこの作品、物語の起伏や謎やスリルや、そういったエンターテイメント小説に付きものの要素を味わうものではないらしい。分かりやすく読者を楽しませるという、エンターテイメント小説に備わっている役割を期待してはいけないようだ。申し訳ないが私には、この本の持つ面白さを受信するアンテナが備わっていなかった。

 論創海外ミステリを全て買って全て読むと決めていなければ、確実に買わないまま、確実に読まないままになっていた本である。とりあえずなんでも読む姿勢でいると、想定外の面白い本に巡り合う可能性もあるのだが、残念ながら本書はそんな出会いに当てはまらなかった。こういった作品をミステリの叢書で出すのは不思議であるが、論創海外にはクロフツの聖書本という前例があるから、実は不思議ではないのかもしれない。