●今日はさほど涼しくはないけれども、湿気が少なくてやけに爽やかである。秋の気配……というのはさすがに気が早過ぎるが、そういえば秋の始まりってこんな感じだったよな、と思い出す。
昭和二十年代に発表された、岡山が舞台の作品を集めた短編集。「首」は昭和三十年の発表だが、原型となった「悪霊」の発表は昭和二十四年である。探偵小説が抑圧された馬鹿げた時代が終わり、さあこれからだ、と意気上がる横溝正史。そんな彼が全力で取り組んだこの時代の短編群は、文章、展開ともに密度が高く、凄みすら感じるほどである。
「神楽大夫」は、「獄門島」で使われたある展開の萌芽が見られるのが興味深い。深読みしすぎかもしれんけど。
「泣虫小僧」は、ええとこのお坊ちゃんではけっしてできない、浮浪児ならではの小道具の設定が光る。
個人的目玉は、初めて読む「首・改訂増補版」である。準備としてまず先に、出版芸術社の『聖女の首』に収録されている「悪霊」を再読した。こちらは非金田一ものである。
事件の骨格は、両者概ね同じ。「悪霊」では、宿の養子の事件と映画関係者の事件とがともに過去に発生しており、主要人物がそれらを回想して語る形式になっている。二つの事件はほぼ同等の重みをもって扱われる。一方「首」では、映画関係者の事件はまさしく今、物語中のリアルタイムで発生する。当然、こちらの事件こそが主題となる。金田一耕助が活躍する探偵譚として改稿するなら、こういう構成になるのはまあ自然なことだろう。
被害者が(伏字)しないとなかなか難しいだろうと思うが、そこをツッコムのは野暮というものである。カーの某短編を連想させる首切断の理由、二つの事件の関連、とある目撃者の設定、などといくつも趣向が盛り込まれており、なかなかの読み応え。
それにしても、「首」でもその姉妹編と言える「鴉」でも、こういう作品を読むとどこか田舎の温泉宿に、長期滞在して退屈したくなる。そんなのんびりした時間の過ごし方が実現するのはいつの日か。
さて最後に、通常版の「首」をざっと流し読みする。旧版の角川文庫では『花園の悪魔』に収録されている。増補版の方が登場人物が増え、描写も展開も丁寧になって、確実に完成度が高くなっている。これ以上の詳細な比較は、戎光祥出版の『横溝正史研究3』に書いてある内容を読めば十分足りるので、ここでは省略。