累風庵閑日録

本と日常の徒然

『松風の記憶』 戸板康二 創元推理文庫

●『松風の記憶』 戸板康二 創元推理文庫 読了。

「松風の記憶」
 舞台や視点人物を様々に変えながら、長い年月に渡る人間関係の変化と深化とをじっくりとたどってゆく。歌舞伎や踊りの世界を舞台にしており、登場人物達は一般サラリーマンとは異なっているけれども、人間としてさほど異なるわけもない。彼らの感情の描写を丁寧に積み重ねることで、当たり前の弱さや醜さを備えた人間としてそれぞれがぞれぞれに厚みを増してゆく。だからこそ、終盤の(伏字)シーンがひりひりするほどスリリングで凄まじい。

 他にも、人物造形が確かだからこそ迫って来る場面がある。言ってはいけなかったひと言。それまでの積み重ねがあるからこそ、軽い気持ちで口から出た言葉は、聞いた者にとっては重大な意味を持ってしまう。それまでの積み重ねがあるからこそ、あの日あの時あの場面で、ある一人だけは周囲の者の何気ないふるまいに意味を感じてしまう。

「第三の演出者」
 強烈な個性の持ち主である演出家の死後、ある事件が起きる。その事件と演出家の人となりについて、周辺人物が順番に語ってゆく。そこでは語り手本人の生い立ちといった関連情報も併せて語られるばかりか、真相につながる手掛かりがひっそりと仕込まれている。ノートに記された彼らの談話を読んだ中村雅楽が、関係者に一度も会わずに真相を見抜くというのが、ひとつのミソである。雅楽の探偵法は、物証に基づくロジックを駆使するのではない。人間性に対する深い洞察によって真相を浮かび上がらせるのである。

 どちらの作品も人の心の機微が大きなウェイトを占めているので、どのくらいの精神年齢の時に読むかによって、受け止める面白さがだいぶ変わってきそう。ところでこれで、創元推理文庫の「中村雅楽探偵全集」全五巻を読み終えた。来年からまた別の個人集成を読み始める予定である。