累風庵閑日録

本と日常の徒然

午前零時の男

●谷中の全生庵に、幽霊画の展示を観に行ってきた。今回の主目的は、去年九十四年ぶりに発見されたという、鏑木清方の幽霊画である。うつむいて顔を見せないまま、捧げ持つように茶碗を差し出す女性像。一見普通の人物画のようだが、青白く骨張った指が尋常の者でないことをうかがわせて、じわじわと不気味さが募る。

 他に、絵師の名は失念したが蚊帳の向こうに座ってうつむく幽霊の目付きが恐ろしい。無表情のようでいながら底知れぬ恨みと憎しみと哀しみとを湛えたような。おぼろげな姿なのに、蚊帳を通して見える部分だけは比較的明瞭に描かれて、不合理な不気味さもある。

●お願いしていた本が届いた。
『午前零時の男』 紅東一 盛林堂ミステリアス文庫
近いうちに私家版のエバーハートも届くはず。そっちも楽しみである。そういえば、ポール・アルテの新刊も近々届くはずだ。楽しみである

『章の終わり』 N・ブレイク ハヤカワ文庫

●『章の終わり』 N・ブレイク ハヤカワ文庫 読了。

 なんと地味なオープニングか。探偵ナイジェル・ストレンジウェイズが取り組むのは、印刷直前の原稿に細工をしたのは誰か、という謎である。背表紙の粗筋には中盤以降の展開もしっかり書いてあるのだが、事前の情報は極力遮断することにしているので、あまりのことにもう少しで投げ出しそうになった。途中から俄然面白くなったけれども。

 ナイジェルの探偵活動に伴い、被害者と周辺の関係者と、それぞれの過去が次第に明らかになってゆく。並行して、それぞれが今までとは異なる顔を見せ始める。過去から現在に至る時間と、今現在の内面と、両方の座標軸で登場人物達の造形が深化してゆく様子が、なんとも読み応えがある。おそらく、少年時代に読んだら退屈だっただろう。おっさんになり果ててしまった今だからこそ味わえる面白さである。

 犯人は、疑いを逸らすためにある種の工作をしている。読者がそれにうかうかと乗せられてしまうと、結末の意外性が効果を発揮する訳だ。だが私はその、表面的には犯人ではないという物語設定を軽く読み流してしまった。なるほどこの人は犯人ではないことになっていたのだな、と結末に至って再確認する体たらく。我ながら情けないことである。という訳で、意外性はあまり感じなかった。だが、結末を読むと犯人のこの工作、なかなかシンプルで効果的である。これはこれでミステリの味として楽しめた。

はらぺこ犬の秘密

●書店に出かけて本を買う。
『いにしえの魔術』 A・ブラックウッド アトリエサード
『疑惑の銃声』 I・B・マイヤーズ 論創社
『はらぺこ犬の秘密』 F・グルーバー 論創社

グルーバーのジョニー&サムシリーズの未訳作品が、今後論創海外から全て刊行されるそうで。いいでしょう、お付き合いしましょう。

●某所に寄り道して絵画の展示を観に行くことも考えたが、結局は真っ直ぐ帰宅。いい加減暑くてうんざりしたし、午後からゲリラ豪雨の可能性という予報を聞くとうろうろする気も失せる。明日から金曜まで、大気の状態が不安定だったり雨の予報だったりするから、今年の夏休みはどこにも行かずに終わるかもしれない。

『江戸川乱歩の推理教室』 ミステリー文学資料館編 光文社文庫

●『江戸川乱歩の推理教室』 ミステリー文学資料館編 光文社文庫 読了。

 江戸川乱歩が何らかの形で関わった犯人当てミステリを集めたアンソロジーだそうで。収録作の大半は、河出書房刊の江戸川乱歩編『推理教室』から採っている。以前、数作が割愛された河出文庫版の『推理教室』を読んだことがあるが、もちろん内容は全く覚えていない。

 長くても二十ページほどの小品ばかりだから、細かなところまで描写が行き渡らないのはやむを得ない。そんな段取りで犯行が上手くいくのか? だの、あの記述はちょっとおかしいだろう、だのとちょいちょい引っかかる。だが、それをいちいちツッコムのは野暮ってえもんだろう。細かいことは気にしない、という姿勢で読み進める。

 収録作中のベストは、あまりにもベタな(伏字)のネタを意外な方向性で活用した、仁木悦子「月夜の時計」である。他に気に入った作品は、パズル要素が強くて考えるのが楽しい佐野洋「土曜日に死んだ女」、ページ数のわりに解決に至る筋道がしっかり書かれている大河内常平「サーカス殺人事件」、といったところ。

 特に作者名を意識していなかったが、飛鳥高は収録の三編全て気に入った。ネタがシンプルな「飯場の殺人」、謎の設定と真相との関係が秀逸な「にわか雨」、展開がそもそも読んで面白い「無口な車掌」である。

『戸田巽探偵小説選I』 論創社

●『戸田巽探偵小説選I』 論創社 読了。

 収録作中のベストは「第三の証拠」で、構成と切れ味とが上々の出来栄え。「出世殺人」は、全体がブツ切りのようでちと残念だが、様々な人物の出世欲が互いに影響を及ぼし合う展開は、これも構成の面白さがある。「三つの炎」はなんと密室ネタで、真相は実に他愛ないものだが、密室というだけでちょっと嬉しい。「相沢氏の不思議な宿望工作」は、提示される謎がなかなかに魅力的。「退院した二人の癲狂患者」は、奇妙な犯行動機が面白い。

 その他、艶笑コントのような軽い作品にも好感が持てる。小説に対する好みがだんだんと変わってきたのか、深刻な、デカダンな、陰湿な探偵小説はもういいや、という気になりつつある。

『死体は散歩する』 C・ライス 創元推理文庫

●『死体は散歩する』 C・ライス 創元推理文庫 読了。

 相変わらずの疾走感が素晴らしい。途中あまりにも強引な展開にひっくり返りそうになったけれど、流れに乗って楽しむつもりならこの程度のことを気にしちゃいけない、と思い直す。いつまで経っても結婚の手続きに出かけられないジェイクとヘレン、という繰り返しのくすぐりが楽しい。西尾正のねっとりした作風にしんどい思いをした後の口直しには、まことに好適な作品であった。

 物語の三分の一ほどで、それまでのある二カ所の記述から犯人の名前だけは見当が付いてしまった。真相の全体像はちょっと複雑で、結末前に読者がたどり着けるとは思えないけれど。キモとなるのが動機の問題で、(伏せ字)という趣向はなるほどと思う。だが、解決部分でマローンに説明されないと分かるわけないわな。

 犯人はとある設定によってカモフラージュされているのだが、その遠因となった、(伏せ字)が哀しい。

『西尾正探偵小説選I』 論創社

●『西尾正探偵小説選I』 論創社 読了。

 作者の志向は情念の物語を書くことにあるようだ。ロジカルな面白さはほとんどない。だからといってつまらないと断じるのは視野の狭い読み方だとは思うが、好みから外れているのは事実。ねっとりとした書きっぷりで一人語りがだらだら続く作品ばかりが並ぶと、いい加減鼻についてくる。

 作中に複数の捻りを盛り込むのも、作者お得意のパターンのようで。これもちと困りものである。伏線のないどんでん返しを何度も繰り返されると、作者の独り善がりに思えてしまう。

 そんなこんなで作品に乗れず、とうとう一時中断してしまった。間に別の本を挟んで気分を変えてどうにか読了したが、結局最後まで気分は平熱のまま。こういうのは、アンソロジーの一編でちょいと読むのは悪くないが、まとめて読むのはしんどい。

 以下、個別作品に対するコメントを少々。「線路の上」が収録作中のベスト。語り口が奇怪な内容に上手くハマった。意味があるのかないのかよく分からないオチも秀逸。「骸骨」は、戦前のいわゆる変格探偵小説にありがちな展開は特にどうということもないが、あるひとつの台詞にはちょいと凄みがあった。「海蛇」は、ここまで突拍子もない方向に突っ込んで書かれると、読み応えがある。

●次は口直しに、明るく楽しいミステリを読みたい。

『マタパンの宝石/鐘塔の天女』 ボアゴベ 春陽堂

●『マタパンの宝石/鐘塔の天女』 ボアゴベ 春陽堂 読了。

 昭和四年刊行の、探偵小説全集第十七巻である。「マタパンの宝石」については先日書いた。

「鐘塔の天女」
 本文の振り仮名によると、「とうのエンゼル」と読ませたいらしい。物語は、ノートルダム寺院の塔からの墜落死という派手な事件で始まる。それを探求するのが、「マタパンの宝石」と同様、働く必要のないご身分の遊民達。探求の動機は、そういう冒険が好きだから、だと。いい気なもんである。この作品では、そんな遊民が四人も集まり、さらにはヒロイン役として「鐘塔の天女」も仲間に加わる。

 中盤まではありきたりで他愛ないスリラーだし、犯人もすぐに目星が付く。誰が犯人かという興味は早い段階で脇に追いやられ、探求する側と悪漢一味との闘争劇が主題になってくるのである。私的捜査に携わる面々がみんな興味本位なせいか、全体を覆うトーンは明るく軽快。ところが、ページが進むに従って次第に悲劇的な色が濃くなってくるのは意外であった。こんなヘヴィーな展開か、と驚く。時折、姦通や恋の鞘当てなんぞの場面が殺人事件そっちのけで描かれるのが、いかにもおフランスらしい。

人間ドック

●朝から病院。年に一度の人間ドックである。分かっちゃいたけど、鼻から挿す胃カメラはえげつない。今回四度目だが、なかなか慣れるもんじゃない。

 体重も体脂肪率も、前年より増えている。やはり、ジム通いをサボりっぱなしだった影響は甚大である。六月からまじめに再開しているのだが、効果が表れるには期間が短すぎたようだ。

●今読んでいる本に、どうも気分が乗らない。ページ数的にはあと一日で読了できるのだが、明日から別の本を手に取るかもしれない。継続か中断かは、明日の朝の気まぐれで決めることにする。